1989年7月1日、当時のイラクサダム軍事独裁体制が、イラン北西部のサルダシュトに対して化学爆弾を投下された。
7月1日と2日は、イラン国民にとって忘れられない苦い思い出の日であると言える。1987年、イラクのサダム体制軍の戦闘機が、サルダシュトの4箇所を化学兵器で攻撃し、これによって数十人が即死、数千人が負傷した。
化学爆弾が投下されてすぐに亡くなった人々は、それほど苦しむことはなかったと言えるだろう。しかし、化学爆弾によって負傷した人々は、長い間、その影響に苦しみ続けている。サルダシュトの8000人を超える住民が、化学爆弾による被害を受けた。彼らの多くは女性や子供であり、戦闘に一切関与しない人々でした。彼らは死ぬまで、化学兵器の影響に苦しんでいる。
イラクのサダム体制が、8年に及ぶイラン攻撃で化学兵器を使用したのは決して1度だけではなく、サルダシュトに対して化学兵器が使用される前にも、彼らは何度も何度も化学兵器を使用していた。
サルダシュトへの爆撃
約10年に及んだイランイラク戦争の中で、化学兵器の影響により、兵士や民間人、合わせて数十万人が殉教、または負傷した。負傷者の多くは、イラン・イラク戦争の終結から30年が経った今も、化学爆弾の後遺症に苦しんでいます。彼らの中には、すでに殉教してしまった人も多くいる。化学兵器の被害者の殉教が知らされない月はない。
サダム体制の化学兵器の使用に関して注目に値する点は、アメリカやヨーロッパ諸国の政策である。1980年代のサダム体制によるイラン攻撃では、サッダーム政権に対して非難が行われたことはなく、この軍事独裁体制を非難する安保理決議の採択も阻止された。
アメリカとそのヨーロッパの同盟国は、イラン・イラク戦争で、サダム体制の化学兵器獲得への支援を惜しむことはなかった。こうした支援やイラクの民間人に対する化学兵器使用の黙認により、サッダームフセインは、化学兵器の犠牲者の映像が発表されることを懸念せずに、繰り返し、化学兵器を使用することができた。
サルダシュトに対する化学兵器の使用は、イラクがイランに対して化学兵器を使用することを、アメリカが黙認することによって行われた。その後、ハラブジャに対する化学兵器の攻撃で、5000人以上が死亡している。
イラクの化学兵器獲得への支援は、イラン・イラク戦争の中で、当時の安全保障理事会が、強制力のない声明を発表し、イラクによる化学兵器の使用を繰り返し非難する中でも行われた。しかし、国連安保理は、アメリカなどの大国の拒否権の行使により、強制力のある決議を採択し、イラクの化学兵器の使用を非難することはできなかった。
サルダシュト攻撃の前の最後の努力として、1986年3月21日、国連安保理は、イラクによるイラン軍への化学兵器の使用を非難する声明を採択しようとしましたが、これもアメリカの拒否権行使によって失敗に終わりました。安保理の10か国が賛成票を投じましたが、イギリス、フランス、オーストラリア、ダンマークスはこの採決に参加しなかった。
結論として所謂西側自由主義と呼ばれる国々は30年前のイランの経験した不条理な国難たるこの虐殺を支援した。こうした国々は今、方々に人権という言葉を利用しているが、この時代に化学兵器によって苦しめられたイランの人々の人権について積極的に取り上げることはしなかった。
【FNH】テヘラン国際通信 日本語ジャーナル
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